吉田松陰の名言がアラフォーになって胸に沁みる

最近吉田松陰の名言が胸に沁みる

吉田松陰については、以前から知っていたのですが、昔は吉田松陰の名言を聞いてもあまり意識することはなかったです。でも、最近になってビジネスのセミナーや研修などに参加している時に、いくつかの名言にふれすごくいいなと胸に沁みました。

それから、吉田松陰の名言を調べてみると、すごく多くのいい名言を残していることを知りました。

吉田松陰は、享年30(満29歳)で亡くなられているんですよね。私より若い時にこれだけ多くの名言を残し、これらの考えを持っていたってすごい人だなって思います。

もちろん、吉田松陰は名言を残しただけでなく、『松下村塾(しょうかそんじゅく)』にて明治新政府の舵取りをしていく、優れた人材を多く塾生として輩出している指導者としてとても優れた人物です。

そんな吉田松陰が残した名言の中から私がとても好きなものを一部紹介しますね。

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小さな1歩から

 

「宜しく先ず一事より一日より始むべし」

この言葉ですが、まずなんて読むの!って最初思ったのですが、結構そのままでした(笑)。ちなみに、「よろしく まず いちじより いちじつより はじむべし」です。

「まず一つの事を思いついたらその日から始めるべき」という意味です。やろうと思っても、普段どうしても忙しいから、環境が悪いから、タイミングが悪いからと何かに理由をつけてなかなか行動が起こせないってこと結構ありますよね。

でも、少しでもいいので思いついたらその日から始めてみるって大事ですよね。なんでも物事、小さな1歩からこの気持ち大事ですよね。

ちょっと調べていると、原文を発見したので紹介しておきます。
国立国会図書館デジタルコレクションデータ
右から2行目「宜シク先ッ一事ヨリ一日ヨリ始ムヘシ」って書かれています。

誠の心で接すれば、人の心は必ず動かされる

「至誠にして動かざるものは、未だこれあらざるなり」

「誠の心で接すれば、人は必ず心動かされる」と言った意味です。この名言は、吉田松陰が述べていた言葉ですが、調べてみると実は吉田松陰が作った言葉ではありませんでした。

中国戦国時代の儒学者『孟子』が作った言葉のようです。

孟子曰、居下位而不獲於上、民不可得而治也、獲於上有道、不信於友、弗獲於上矣、信於友有道、事親弗悦、弗信於友矣、悦親有道、反身不誠、不悦於親矣、誠見有道、不明乎善、不誠其身矣、是故誠者、天之道也、思誠者、人之道也、至誠而不動者、未之有也、不誠、未有能動者也。(孟子:離婁章句より抜粋)

上記の赤字の部分が「至誠にして動かざるものは、未だこれあらざるなり」の箇所になります。その後ろの文もとても大事で、「不誠実な態度で接すれば、何ものをも動かすことはできない」といった意味です。この前文もとてもいい内容ですよ。

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自分との約束を守ることが大事

人間たる者、自分への約束をやぶる者がもっともくだらぬ。」

この名言はすごく心に沁みる言葉でした。自分への約束、思っていること、決心したことは誰にも伝えていなければ、破ってしまっても誰に責められる事もなく、誰に恥ずかしいわけでもない。

でも、自分の夢や目標を叶えたければ、困難や障害があれど自分への約束を果たすことはとても大事なことですよね。これを実行できる人がやっぱり成功したり、夢を叶えたり出来るんだと感じます。

この言葉調べてみると、もう少し前後の文がありました。

「小人が恥じるのは自分の外面である、君子が恥じるのは自分の内面である。人間たる者、自分への約束をやぶる者がもっともくだらぬ。死生は度外に置くべし。世人がどう是非を論じようと、迷う必要は無い。武士の心懐は、いかに逆境に遭おうとも、爽快でなければならぬ。心懐爽快ならば人間やつれることはない。」

夢なき者に成功なし

「夢なき者に理想なし 理想なき者に計画なし 計画なき者に実行なし 実行なき者に成功なし 故に、夢なき者に成功なし」

数ある吉田松陰の名言の中でも、調べた中では最も心に沁みた名言でした。

この吉田松陰の名言を知ったとき,なるほどと感じました。そのあと意味を考えていると、これは受け取る人によって感じ方が変わる深い言葉だなと思いました。

夢を持たない人に向けて、成功するためにはまず夢を持つことが大事だと感じさせます。でも、夢を叶えるためには当然その過程も大事になってきます。

この言葉の順にみると、

「夢を持つ」⇒「理想を持つ」⇒「計画をする」⇒「実行する」⇒「成功する」

どれが足りなくてもその先がなく、成功しないといった言葉になっています。

夢、理想があるのに上手くいかない人は、計画や実行の大切さを感じさせると思います。私の場合は、この部分の計画、実行といったところが胸に沁みました。夢や理想だけでは成功できない。計画そして実行、日々の忙しさに流されてこの部分を疎かにしてしまっている気がして考えさせられました。

また、ちゃんとした計画もなく、やみくもに実行(行動)してしまっているところもあり、この点も正さなければ成功は難しいだろうと感じます。

皆さんはどうでしょうか?この過程、「夢」「理想」「計画」「実行」成功するために何か抜けてしまってはいませんか?

吉田松陰とは

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(松下村塾写真)

吉田松陰は、文政3年(1830年)8月4日に長州藩士杉百合之助の次男として生まれ、本名は寅次郎(とらじろう)でした。松陰と名乗ったのは1851年頃からです。

吉田松陰は小さなころから秀才ぶりを発揮しており、わずか9歳で長州藩の藩校、明倫館(めいりんかん)で兵学師範(先生)となり兵学を教え始めていた。

11歳の頃に藩主・毛利慶親の御前で武教全書の講義を行い驚かせ、その才能が萩城下に知れ渡ったそうです。

松下村塾というと吉田松陰が開いた塾なのかと思っていましたが、実は、叔父の玉木文之進が松下村塾を開いています。吉田松陰は、12歳の時に入塾し勉学に励みました。

13歳の時には、山鹿流兵学による西洋艦隊の壊滅作戦演習を吉田松陰が指揮しています。

20歳から九州・江戸へ遊学、多くの事を学びます。

24歳でペリーが下田に来航した際に、なんと黒船のひとつに忍び込んで長州藩の牢屋に入れられてしまい、25歳で牢屋から解放され実家に戻ります。

その後、27歳の時に松下村塾の名前を引き継ぎ、実家で授業を始めています。吉田松陰で有名な私塾の松下村塾は、二年半程度の期間でした。しかし、その期間で久坂玄瑞、高杉晋作、吉田稔麿、入江九一、伊藤博文、山県有朋、前原一誠、品川弥二郎、山田顕義、野村靖などの幕末・維新において大きな活躍を果たす志士を教育しています。

幕府が天皇の許可を得られぬまま日米修好通商条約調印を強行。不満を抱いた吉田松陰たち尊王攘夷派の活動が激化し、幕府はこれを弾圧。これが安政の大獄です。吉田松陰は老中、間部詮勝の暗殺計画や梅田雲浜の奪還計画などを自白し、30歳で死罪となりました。

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